三千通り (サンゼントオリ/旧 海鳴り金魚) > 留・流 > 「手紙」

正しいひとへ。

 こどもの頃には、正しさというものはみんなひとつの同じところを目指しているのだと思っていました。正しいことは家族や周りの大人から教えられたり、学校や本で学びました。矛盾した正しさを示されたときには、どちらかが間違っていてどちらかがより正しいのだと思っていました。のちにそうではないのだと知りました。
 なにが正しいかを判断するのはそれぞれの自分です。誰かと誰かの言い分が矛盾していても、どちらも正しいと言うことができるのだと知りました。

 正しいことには背中合わせで正しくないことがくっついています。自分にとって正しいことがはっきりすると、正しくない行いをするひとびとが見えてきます。逆に、正しくない行いを見て、自分が正しくはどうあるべきだと思っているのかが分かることもあります。正しくない行いをするひとは、自分だったりほかのひとだったりします。
 正しい、というのは、そうあるべきという意味です。正しい、というのは、正しいという意味です。正しい、というのは、間違っていないという意味です。

 間違っていることは正さなくてはならないと、正しいひとが言ったら、私は何も言うことができないでしょう。
 正しさは絶対的なポーズをとる。……でなくちゃならん、と主張する。
 私の正しいことと誰かの正しいことが相容れなかったら、どうしましょう。正しさ同士がどうしても共存できず、互いに排除しあうものだったら、どうしましょう?
 それは場合による。
 人は正しさのみに拠って生きているのではないし。私は私の正しいと思うことを実際行えるとは限らない。限らないどころか、正しくない行いのどれだけ多いことか。
 正しさはひとを排除することができる。正しさを理由に、他人の道を塞いで自分の道を通すことができる。自分は正しくて相手は間違っている、それが認められれば相手を殺す理由としてさえ充分だったりする。誰が認めるのか。けれど正しさを判断しているのは自分です。

 どうして正しくない行いをするのか。あなたの言う正しいことと自分の正しいと思っていることとが違うから、だけではない。
 自分の思う正しさを明確に知り信じていても、正しさはただの思念のひとつだ。正しさそれ自体に拘束力はない。正しくいられないときもあるということです。いったいなにが私を動かすのか、それはものすごく謎だ。
 だけどやっぱり正しくありたい、そのほうが良いと思う。自分の正しくなさは悩ましいことです。

 正しさを基準とした判断に基づいて他人を否定することは正しくないことだと私は思う。その理由は、自分にとっての正しいことが相手には正しくないかもしれないから、ではない。自分の考えが正しくて相手が間違っている、と思ったときの正しさと、正しくない他人を否定する行動をとることの正しさは別々のもので、前者が後者を成り立たせるものではないからです。

 それはただの言葉なのに、相手に影響を与える。言葉は人の発したものだ。
 私があるひとに、あなたは間違っている、と言ったら、その人は動揺するかもしれない。反感や怒りをかうかもしれない。その人が正しいと思っていることについて指摘したなら、可能性は高まる。
 人は正しくあるべきだからだ。正しいとはそういう意味だからだ。

 だけど、そうあるべきことが即ちそうあるわけではない。
 反感や怒りは感情だ。正しさや倫理とは異なった力で心を動かす。正しさを認めても、認めたことを表わせないときがある。
 要するに私が言いたいのは、正しい人は正しくあるだけでは足りない、ということです。正しくない私が正しい人を恨まずに正しくなるためには、正しさに対して素直に吸収しようという姿勢でいることが必要です。あなたの話を聞いていたいと思わせてほしい。邪心を抱かせないで、美しいものを追求する気持ちであなたに向かいたいのです。正しいひと、そう呼び掛けながら私は、神様みたいなものを求めているのかな。

 信念を持ってより正しく生きようとするひとを、美しいと思います。
 あなたへの憧れがずっと失われず続くことを願っています。

こみちみつこ拝


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