江戸堤と三谷川


      


  三谷川の水は篠立区民ほとんどの飲料水であったが、豪雨になると土石流を篠立へ押し流した。 この川は白栗川、牧田川へとつながり、時代は不明だが大泥流となったことがある。 その証拠は明行寺北100mの地点で、地下2mのところに腐植土の層が見えたり、現在地表に現れている小石、砂利はその時に流れ出た物と古老は云う。 篠立の畑は小石が多くそれを取り出すのに作人は非常に困っている。 言い伝えによると篠立一帯は河原になったということだ。 この災害の対策として江戸時代、西山林道橋の下流50mの地点で、南側の稜線を切り開き員弁川上流へ水を落とす方法がとられた。
  江戸に出向いて、その許可に一ヶ月かかった。 これを「江戸公示」という。(寛保二年:1742年) この工事はわずかな石積みによって窺われるのみで、今は昭和49年治山工事によりブロック積みの護岸工事が施されている。