オペラの発展

 フィレンツェで生まれ、マントヴァで花開いたオペラは、イタリア全土へと広まって行く。ボローニャやローマといった都市以上に重要なのは、ヴェネツィアである。1637年、この地に入場料を取る一般公開歌劇場が設立された。モンテヴェルディの作品をはじめ、この劇場では400曲近いオペラが1700年までに上演されている。

 18世紀に入ると、オペラの中心はナポリへと移動する。アレッサンドロ・スカルラッティやペルゴレージの名は、特に重要である。この時代には、メタスタジオによって提唱されたオペラ・セリアの作劇法と、かつての「幕間劇(インテルメーディオ)」の流れを引くオペラ・ブッファと呼ばれるコミック・オペラの双方が併演されていた。オペラ・ブッファの代表作、ペルゴレージの『奥様女中』(1733)は、彼の3幕からなるオペラ・セリア『誇り高い囚人』の幕間劇として同時に初演されたものである。この時代の作曲法として注目すべきは、ダ・カーポ・アリア(A-B-A'の形式のアリアであり、A'は自由な即興的装飾歌唱が行なわれた)の隆盛と衰退である。即興的名人芸への好奇心から、ドラマトゥルギー重視への観客の興味の移行が、この変化を生んだのだろう。この二律背反の観客の要求は、この後も常にオペラにつきまとうこととなる。

 17世紀にイタリアで広がったオペラは、他のヨーロッパの国々へも流れて行く。17世紀後半のフランスでは、フィレンツェ出身のリュリが多くの作品を発表し、さらに18世紀に入ってラモーがこの流れを引き継ぐ。ここで忘れてはならないのが、リュリが、まずバレエで成功し、その後にオペラ作曲を始めたことである。このバレエとオペラの関係は、その後のフランス・オペラ界に強い影響を及ぼすことになる。リュリの『アキスとガラテ』(1686)や、ラモーの『ゾロアストル』(1749)は重要な作品。とくに後者は、音楽とドラマとの関係における問題提起を呼び起こし、パリの音楽界をリュリ派とラモー派に二分する大論争のきっかけとなった。

 17世紀後半のもう1人の重要な人物は、イギリスのパーセルである。1689年に作曲された『ディドとエネアス』は、彼の代表作と呼べるものであり、今日もなお上映されている。

 イギリスの音楽界は、パーセルの後には、自国出身の音楽家ではなく、ひたすら輸入によってその屋台骨を支える。イタリア風の作風を吸収したドイツ人ヘンデルは、この地で『リナルド』(1711)や『ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』(1724)、『クセルクセス』(1738)をはじめとする数々の傑作を生み出している。

 18世紀ナポリ派のオペラの華麗な装飾は、「ベルカント・オペラ」の名と共に、音楽とドラマとの多くの軋轢をも生み出した。カストラートという去勢された男性アルトの全盛も、この時代を象徴している。

 メタスタジオによって確立されたこの時代の類型的オペラ・セリアの作劇法に反旗を掲げたのが、ウィーンの宮廷楽士長だったグルックである。不要な虚飾をオペラから除去しようとした、所謂「グルックのオペラ改革」は、『オルフェオとエウリディーチェ』(1762)、『アルチェステ』(1767)、『パリスとヘレナ』(1770)といった傑作を生んでいる。この改革がウィーンで十分に支持されたわけではなかったグルックは、後にパリへ移り『アウリスのイフィゲニア』(1770)や『タウリスのイフィゲニア』(1776)といった傑作で成功を収めた。

 18世紀後半になると、ナポリ派の流れを引く中から、数多くのセリアやブッファの傑作が登場する。パイジェッロやチマローザ以上に今日の我々に重要な作曲家は、モーツァルトである。彼は、ナポリ派の作風を踏襲した語法を経て、後期の「ダ・ポンテ・オペラ3部作」と呼ばれる『フィガロの結婚』(1786)、『ドン・ジョヴァンニ』(1787)、『コシ・ファン・トゥッテ』(1790)、あるいは『皇帝ティトの慈悲』(1791)らの傑作によって、ナポリ派の枠組みからも、グルックのオペラ改革からも解放された天衣無縫の芸術を生み出した。『後宮からの誘拐』(1782)や『魔笛』(1791)といったドイツ語によるジングシュピール(歌芝居)によって、ドイツ・オペラの将来への方向づけを行なったのも、モーツァルトの功績だろう。彼の先輩にあたるハイドンも、イタリア語によるオペラを数多く作曲している。

 18世紀においてもオペラの総本山はイタリアであったが、音楽史的にはグルックとモーツァルトという2人の独墺圏の作曲家に注意が向けられている。オペラの覇権を再びイタリア人の手に取り戻すには、19世紀のロッシーニの登場を待たねばならない。