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ギリシャ神話の一つ。水の精クリュティエ(Clytia)は太陽の神アポロ(Apollo)に恋をし、大地に直立し9日9夜アポロを思い、彼を見つめつづけました。しかし、恋は実らず、太陽の光を浴び続けた彼女の体は足が地に根を下ろし、やがてヒマワリになってしまいます。その思い絶えずして今もヒマワリは太陽、つまりアポロを見続けているというわけです。そのジッと立ちつくす姿から、ギリシャ神話の中では慈悲の花として称されています。
ひまわりは北アメリカで発祥した植物で、北アメリカの至る所に住んでいたネーティブアメリカンの部族の間では、唯一の種から栽培される農作物として、また高エネルギーを生む重要な食物として広く栽培されていました。また、現在のアリゾナ州やニューメキシコ州で紀元前約3000年にひまわりが栽培されていたという証拠が発見されており、とうもろこしよりも以前に栽培できるようになったという報告もあります。さまざまなインディアンの部族ではひまわりの種がいろんな方法で使用されていました。種をすりつぶしたり叩きつけたりして粉末に加工し菓子やおかゆやパンにして食べる方法や、肉に豆やかぼちゃ・トウモロシといった他の野菜と混ぜて食べていた部族もいました。スナック菓子としても食べられており、種の殻を砕いて実をそのまま食べていました。また、パンを焼くときに使う油をひまわりの種から搾っていたという可能性についても言及されています。食べ物としてだけでなく、織物につかう染料やボディーペインティングや装飾にも使われていました。蛇に噛まれたときや怪我をした時にも、ひまわりの一部が塗り薬として使われ、種の油は肌や髪に使われていました。乾いた茎は家を建てる材料として使われていました。このようにひまわりはインディアンの間で幅広く使用されていました。
そんなひまわりを偶然発見したスペイン人の冒険家達が1500年代に風変わりな植物としてヨーロッパへ持ちかえり市民に伝えると、西ヨーロッパでは主に装飾用(観賞用)の植物として広く用いられるようになり、薬としての使用も発達していきました。1716年までに、イギリスではひまわりの種から油をとることが当たり前のようになります。しかしながら、向日葵がロシアへ伝わるまで、決して食用植物としては見られていませんでした。装飾用として最初使われていたひまわりは、18世紀に栽培用植物として非常に人気がでると、1830年までにひまわり油の製造が商業レベルで行われるようになりました。19世紀初期までに、ロシアの農民達が200万エーカー以上(約8億平方メートル)の広大な土地を利用して向日葵を栽培するようになりました。その間、2種類のタイプに識別されました。1つは油を製造するオイルタイプ、そしてかなり変化に富んだ食用タイプ。そこでは、ロシアの農学者によって最初の改良種(hybrid)が作られました。19世紀後期になると、ロシアで改良された向日葵の種がロシア人やドイツ人の移民によってアメリカ合衆国に再び戻ってくるようになります。1880年までに、ロシアで作られた種がマンモスロシアンとしてアメリカで宣伝されるようになり、現在もなおこの独特の種が100年以上も長く人気を誇り続けています。そして1950年代には、ヒマワリが重要な農作物として認識され始め、ノースダコタ州やミネソタ州から始まりアメリカ合衆国中で栽培されるようになりました。
野生のひまわりは、北アメリカの広大な土地の隅から隅で、道沿いの溝や多くの地域で咲いているところを見ることが出来ます。アメリカ合衆国のネーティブアメリカンの生息地域で発見された向日葵の種類には、50の種と19の雑種があり、自然のままの向日葵はたくさんの花や顔を持ち、花の受粉に昆虫を必要とします。これらの野生の向日葵は、たった一つしか花や顔を持たず花の受粉に昆虫の助けを必要としないような、今日の商業目的に作られた向日葵の遺伝子学的な基礎にあたいします。
その後、ロシア→中国と伝わり、日本へは江戸時代に持ちこまれました。当時は「丈菊(じょうぎく)」と呼ばれていましたが、元禄時代(1688〜1704)のころにひまわりという名前が広まりました。 |
参考: Albert A. Schneiter, ed. Sunflower Technology and Production.
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